吉印体 開発ストーリー

首相印鑑の作風を再現

幻の「ハンコの名店」

東京都港区虎ノ門。

遠く昭和の時代、桜田通りと外堀通りの交差点から3軒目に、その店はありました。 東京、いやこの頃の日本を代表するハンコの名店-

東京虎ノ門・長澤印店外観及び店内

「長澤印店」

当時は虎ノ門の本店のほか、日本橋三越、そして、ホテルオークラにも支店がありました。 1977年夏、かのジョン・レノンが家族とホテルオークラに宿泊した際、ショッピングアーケードの支店を冷やかした、という逸話も残されています。 (店員が年配でジョン・レノンを知らなかったので、その真偽のほどは定かではありません)

また格調高い本店の店内には、太平洋戦争敗戦後、米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式に日本全権大使として臨んだ重光葵の封蝋を始め、印章に関する貴重な史料が展示されていました。

昭和の歴代総理大臣のハンコ

上述の通り虎ノ門交差点にあった長澤印店の本店は、永田町の首相官邸から近いこともあって、遅くとも昭和40年以降、歴代総理大臣(及び官房長官)の私印(私的に捺印するハンコ)の注文を受けてきました。

特に内閣総理大臣私印彫刻の栄誉に浴するのは、その頃長澤印店に何人もいた専属のハンコ職人のうち、群を抜く彫刻技術を持つ者に限られてきました。

日本全体がロッキード事件に揺れた昭和49年(1974)、新たに首相に就任した三木武夫氏のハンコ彫刻を任されたのは、当時長澤印店のエース的存在だった小林吉重師。

吉重師は長澤印店の創業以来脈々と受け継がれてきた「長澤流」とも言うべき、他に類を見ない独特な作風の正統な継承者とされていました。

先代店主・小林 吉重と三木武夫・福田赳夫・大平正芳のハンコ

吉重師は続く福田赳夫氏、大平正芳氏のハンコも手がけ、長澤印店を代表する職人であり続けました。 その一方で吉重師は、酒とオートバイ、そしてたまにはギャンブルをたしなむ、粋で洒脱な愛すべき江戸っ子職人でもありました。

大阪で5年間のハンコ彫刻修業

そんな父親の背中を見て育った次男・小林正二(号:董洋)にとって、ハンコ職人の道に進むことはごく自然の成り行きでした。 高校卒業後、長澤印店に短期アルバイトとして入社し、ハンコ全般の基礎知識を吸収した後、大阪にある印鑑彫刻専門会社・松碩社(しょうせきしゃ)に入社します。

この時のことを後になって彼はこう述懐しています。

先代店主・小林 吉重と三木武夫・福田赳夫・大平正芳のハンコ

「親父は昔ながらの職人で『技術を覚えるなら他人の飯を食ってこい』というタイプでしたし、私も親父から教わろうとは思っていませんでした。むしろ当時は若かったので外に出たいという気持ちの方が強かった。大阪は帰ろうと思ってもそう簡単に帰れる距離ではなかったので、腹を決めて飛び込みました」

しかし、大阪での5年間の修業を経て戻ってきた小林正二を待っていたのは、その間にすっかり年老いた父の姿でした。ほどなくして吉重師は気力体力の衰えから印刀(ハンコを彫る彫刻刀)を握ることも少なくなり、布団に横たわったままの日々が続くようになりました。

思いがけない客の要望

こうして浅草にある店で、日々彫刻作業追われていた小林正二は、ある日見知らぬ客の来訪を受けます。

「実は亡き父がだいぶ以前、虎ノ門にあった長澤印店というハンコ屋さんであつらえた実印を、生前とても大事に使っていました。そこには実に美しい文字が彫られていて、私もぜひこのハンコを彫った職人さんに自分の実印を彫って欲しいと思っていました。残念ながらその店はすでに廃業されているので、あちこち聞き歩いて、こちらのご主人が当時その店で職人をしていらしたと耳にしました。そこで藁をもすがる思いで今日お邪魔した次第です。これが親父が愛用していた実印の印影です」

その印影は相当古いと見え、かなりかすれてはいましたが、その見事なまでのデザインは、間違いなくなく父・小林吉重師の手によるものでした。

そこで小林正二はある決意を胸に秘め、即答します。

「実は、父はもうすでにハンコを彫ることが難しい状態です。しかしせっかく探し当ててはるばるご来店くださいましたので、息子の私でよろしければぜひ彫らせていただきたく存じます」

客の快諾を得た正二は早速下書きの制作にとりかかります。しかし何度書いても、吉重師のような流麗な線が思うように表現できません。 そこで吉重師の机の引き出しから昔の作品帳を探し出し、寸暇を惜しんで穴の開くほど見つめました。

ちょっと鉛筆持ってこい

そうして書き上げた下書きを、数日後のある夜、横になっていた父・吉重師に見せると、

先代店主・小林 吉重と三木武夫・福田赳夫・大平正芳のハンコ

「…そうだなあ、だいたいのところはよく書けているけれど、この角の内側部分をもう少しなめらかに肉厚に、さらにはこの曲線を…う~ん、口で説明するより、ちょっと鉛筆持ってこい」

驚くことに吉重師は仰向けのまま、正二があれだけ苦しんだ流麗な文字線を、いとも簡単にスラスラと書いていきます。そしてそのラフな下書きに関する正二の技術的な質問にも、吉重師は的確に、わかりやすく答えてくれました。

「すごいな、親父」

「何を今さら、これまで何年やってきたと思っているんだ(笑)」

【吉印体】の誕生

その2週間後、吉重師のラフをできる限り忠実に反映させた下書きを元に、正二が夢中で彫り上げた入魂の作品が完成、引き取りに来た客もあまりの見事な出来栄えに思わず嘆息を漏らしました。

「素人目ですが、お父さまの作品にまったくひけを取りません。私も父の思い出とともに、生涯大切に使わせていただきます」

小林正二が父・吉重師の作風を再現した【吉印体】誕生の瞬間です。 そしてそこから10年もの歳月を費やしてさらなる研鑽を積み、最終的な完成形となりました。

小林正二(号・董洋)は、この【吉印体】をもって手彫り印鑑ネットショップ「美印工房」、ならびに「昭和印鑑工房」に相次いで参加、多くの注文を受ける人気書体に育て上げました。今では【吉印体】はすっかり彼の代名詞となっています。

そしてこのたび、志を同じくする地元浅草のハンコ職人たちと【浅草ハンコ名人会】を立ち上げ、ここでも【吉印体】で参加しています。

一方、父・吉重師はその後長い闘病の末、惜しくも2017年にこの世を去りました。

小林正二は、彼が初めて教えを乞うたあの夜の、父・吉重師のなんともいえない柔和な笑顔が、いまだに忘れられないと語ります。

「あの日以降、技術的なことはほとんど教わりませんでした。何を聞いても父は『あとはお前の好きなようにやってみろ』と答えるばかり。職人なら先人の模倣を越えて独自の道を切り拓け、そう言いたかったのかもしれません。それでも、ハンコについて話すときの父は、心なしかいつもうれしそうでした」

吉重師は今も小林正二の心中にあって、息子の奮闘を見守っているに違いありません。 遠い、あの夜のような笑顔で。

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