翔印体 開発ストーリー

大空を舞うようなハンコを彫る職人

父の背中を追って

初代店主・伊藤忠吉が台東区千束に「伊藤印房」を開いたのはまだ戦後間もない昭和22年(1947)のこと。彼は苦労の末、店を地元・千束界隈で知らぬ者のない繁盛店に育て上げました。

その背中を見続けてきた長女・睦子は、元来が父親っ子で細かい手作業が好きということもあり、高校卒業と同時に父の跡を継ぐことを決心します。

父から手ほどきを受け、ハンコ彫刻の面白さがようやく少しずつわかりかけてきた4年後、頼りにしていた父・忠吉が突然の病魔に倒れます。

他に誰も頼るあてのなかった睦子は途方に暮れますが、その逆境をバネに、そこからおよそ10年間の試行錯誤の末に、完全独学でハンコ彫刻の技術を身につけます。

女ハンコ職人ここにあり

当時はハンコに限らず職人といえばまだまだ男性が中心の世界。女性というだけで色眼鏡で見られ、その実力が正当に評価されないなど、少なからず辛酸をなめてきました。

しかし睦子はそんな職人世界に風穴を開けるべく行動を開始します。
昭和60年(1985)の錦糸町西武開店記念の催事「江戸女職人展」に出展したのを皮切りに、その後日本全国のデパートや商業施設で開催されたイベントに参加するかたわら、自らも「女職人展」を企画、多くのメディアから注目を集めます。

そして昭和63年(1988)には「江戸女職人の会」会長に就任します。

小枝印鑑誕生

そんなある日、睦子は旧知のホウキ職人さんから「昔はお茶の木でハンコを作ったものだ」と聞かされ、瞬時に「これだ!」と閃きました。従来のハンコ素材ではなく、自然木を使った伊藤睦子オリジナル「小枝印鑑」誕生の瞬間です。

山歩きが趣味の夫が持ち山から採ってきた20種類の自然木を店頭で5~10年天日干しして硬くなったハンコに文字だけでなく絵柄も彫り込みます。

こうして「小枝印鑑」は伊藤睦子のトレードマークとなり、それ以来幾多のマスコミの取材を受けてきました。

伊藤睦子 日本テレビ「ヒルナンデス!」出演
伊藤睦子 TOKYO MX「お江戸に恋して」出演

【小枝印鑑 マスコミ紹介記事】
◇産経フォト
◇HOYAメガネ OTONA LOG
◇伝統工芸職人
◇Monthly Face~極める人々
◇雇用問題研究会

新型コロナで大打撃

2020年春以降、突如として発生した新型コロナウイルスパンデミックは、全世界で多くの尊い人命が失われただけでなく、経済的にもありとあらゆる商業活動に深刻な影響を及ぼしました。
もちろん伊藤印房も例外ではありません。
不要不急の外出を控えることで来客が激減、そればかりか、修学旅行向けに旅行会社とタイアップしていた「ハンコ手彫り体験教室」が軒並みキャンセルになるなど、経営的にも大きな打撃を受けました。

ブルーインパルスに閃く

この年5月29日の午後、所用で浅草に出た睦子は、吾妻橋の上で多くの人が足を止め、空に向かってスマホをかざす、なんとも不思議な光景に出くわしました。

いったい何事かと空を見上げると、スカイツリーのはるか向こうを、航空機が並んで飛んでいくのが見えました。

それが航空自衛隊による、新型コロナウィルスへ対応中の医療従事者への敬意と感謝を表す、ブルーインパルスの展示飛行だと知ったのは、睦子が店に戻ってからのことです。

真っ青な大空に白いスモークを描きながら編隊を組んで飛んでいくその姿はあまりに雄大かつ自由闊達で、睦子は何とも形容しがたい、清々しい感動を覚えました。

文字が大空高く舞うように

そして、睦子はここでまた閃きます。

「あのブルーインパルスが大空を舞うように、文字が飛翔する雄大なイメージを、ハンコに描けないか?」

こうして伊藤睦子の新たな挑戦が始まります。

印面全体を空に見立て、そこに文字線を、まさに縦横無尽に、伸びやかに走らせる。
1年以上にわたり、何度も試作を重ねた末に、ようやく完成したのが【翔印体】です。 文字が大空を自由に舞うかのような雄大なハンコは、見ているだけで晴れやかな気分にさせてくれます。

ハンコで若い人を応援したい

「私たちハンコ職人にできるのは、精魂込めて彫り上げたハンコで持ち主の方の人生に寄り添うこと。特にこれから社会に出て活躍しようと誓う若い方々を、この【翔印体】で精いっぱい応援したい」

ハンコ職人生活約60年、その間、常に前人未到の荒野を切り拓いてきた彼女が辿り着いた境地は、あの日ブルーインパルスが駆け巡った青空のように、どこまでも晴れわたり、そして澄みきっています。

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